僕は天使の羽根を踏まない

大塚英志によるMADARA完結編。実は2003年にリリースされていたのを知らなかったので最近読みました。
以下、感想です。少し長いです。また、大塚英志と聞いてまず『多重人格探偵サイコ』を思い浮かべ、「『MADARA』ってナニ?」という方は読まない方が良いと思われます。

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おそらく、この作品について語るには"魍魎戦記MADARA"と"青春小説"という二つのキーワードだけで事足りるのかもしれない。カバーには明記されていないものの作者自身あとがきでこれがMADARAの完結編である事を述べているし、また同時に「子供が大人となる年齢の手前の、過渡期の時間に、躊躇ったり、戸惑ったり、立ち尽くしたりいている読者たちに向けられている、ということだ。この本が'89年の夏に於ける「少年少女」と'03年の冬に於ける「少年少女」に出会えたら、と願う。」とまで言っているくらいだからこの青春小説風の文体にも相当な思い入れあっての事なのだろうと思う。

でも、僕はこの作品にたまらなく違和感を感じる。'89年当時、マルカツファミコンやヒッポンスーパーといったゲーム雑誌を当然のように読み、同時に村上春樹の『ノルウェイの森』に打ちのめされてもいたひとりの少年として、そのどちらにも到底首肯く事なんてできやしない。

まずMADARA完結編と呼ぶにはこれまでの本編、諸作品との設定の矛盾は転生篇やその後の天使篇と照らし合わせても明らかだ。神話・伝承関係の後付け設定でがんじがらめになって齟齬が生じてしまうのはこの際仕方ないとしても、「もう、そんなものは誰にも必要ではないはずだ」なんて言ったところでそれが体の良いエクスキューズに過ぎない事は読者の誰にも判っているし、何より(ひょっとすると故意になのかもしれないが)主人公たちのキャラクターが全然"立って"いない。逆に魍鬼八大将軍側の人物が見事に描写されているだけに余計その辺りが際立ってしまう。ただ、物語の結末については特に文句はない。描写はともあれ、話の展開は。

次に、作者はこの作品を青春小説と言っているようだが少なくとも僕にはそうは思えない。明らかな借り物のスタイルや借り物の苦悩に苛立ちを感じるだけだ。そう感じるのは僕がかつて「少女」ではなく「少年」だった、というだけの話なのかもしれないが。「漫画ブリッコ」や白倉由美との蜜月関係を引き合いに出すまでもなく、この人の言う"青春"というのは多分に「少女」の側のそれなのだろうと思う。申し訳ないが「少年」であった僕には、帯に書いてあるような"切なさ"も"狂おしさ"も感じなかったし、"泣きたい"とも思わなかった。まあそれは青春小説の基準を『ノルウェイの森』に求めている僕に問題があるのかも知れない。

要するに、中途半端なのだ。ライ麦畑だとかライナスだとか、海へ行くつもりじゃなかったとかいうキーワードを引用した所でどうしようもないくらいに。

「あるコンピューターゲームの最終章」と「'80年代の終わりの夏、海辺の町で一度だけ、死んでみようと思った女の子たちのその後のお話」、この二つはそれぞれ別個のものとして描くべきなのではなかっただろうか。少なくともその十四歳の少女についての「彼女はいかにして前世の自分を知りたいと思うに至ったのか」みたいな内容のお話だったら僕は喜んでそれを手に取ると思うから。